農園名
食べて笑顔になる 土肥農園
農園プロフィール
04年、すいかをメインとして独立就農を果たす。
06年、土肥農園公式HP開設。
10年、松本市波田、中下原地区に自宅兼土肥農園を建てて移住。
17年、公式HP、全面リニューアル。
営農地域
長野県松本市波田
主な販売品目
すいか、秋冬多品目野菜
主な販売先
JA、個人による直販、直売所
経営規模
すいか151a、秋冬多品目野菜23a
農地(購入地/借地/自家用地)
露地は全て借地、育苗ハウス地のみ自家農地
家族構成
夫婦二人
農業従事者
基本夫婦二人、時期または作業により最大4人
農業機械、施設など
トラクター(40ps)、トラクター(27ps)、ライムソワー、乗用マルチャー、運搬車、クローラー式防除機(500L)、肥料まき機、エンジンポンプ、スイカ育苗用ハウス(6.3m×21.6m)
農業機械、施設等の入手経緯や方法
・就農時に研修先の農家さんが健康上の理由で一時離農される時に、トラクラーなど主要な農業機械を譲っていただく ・上記で足りない機械はJA機械化センターさんやJA波田支所農業課で見つけていただいた。
就農しようと思ったわけ
高校3年のとき、ドラムで飯を食うことを真剣に考える。
が、定まらず、大学受験するも失敗。
1年の大学浪人生活を過ごすもまた見事に大失敗、これで迷うことなく、ミュージシャンになる夢を追いかけることとなり、翌年からフリーター生活をしながらプロへの道をめざす。
フリーター生活中、数度、プロになるチャンスらしきものに出会うもモノに出来ず。
36歳の時に出会ったメンバーで組んだバンドが一定のレベルをクリアしていたので、最後の夢をかけた。このバンドでやるだけたったら、夢を諦めよう、と。が、残念ながらやるだけやる前に人間関係でバンドが解散。残ったのは不完全燃焼感だけ。
音楽の夢はこれで諦めることを決意、すでに38歳だった。
新たな道としての仕事を考えるが、全く思いつかず1年が過ぎる。
03年1月、人に雇われない、人を雇わない、今までフラフラしてきたから地に根を張るような生活をしたい、定年がないから一生夢が追える、等の理由から「農業」って言葉が突然思い浮かんだ。背景がなかったわけでもない。34歳のとき、結婚したが妻の実家はこの地、波田町(当時は松本市との合併前)、妻の叔父が農家(後の師匠)だったため、季節ごとに送られてくる果物の味の素晴らしさに心底感動した。
でも、それらは直接の動機ではない。
とりあえず「農業」って言葉が思いついた。
ネットを検索すると、1週間ほど後に松本市で長野県新規就農相談会が開かれることを知る。仕事をサボって参加、相談コーナーで思いついた経緯を話す。
相談官から「もう少し、勉強してから考えなさい」と当然のごとく一括される。
が、同時にその1年前からスタートした新規就農者プロジェクト研修の存在を教えられる。
その時、妻、妻のご両親、妻の叔父のJA職員などから一斉に大反対されるが、今も反対された記憶なし。どうやら、全く人の話を聞いてなかったようだ。
東京に戻り、農業の入門書を3冊買って勉強するも、農業を見たことも聞いたこともない新規就農希望者にとって、その内容を全く理解できず、ただ眠くなるだけ。
そこでバカ頭絞って考える。
こんな本読んで、何がわかるのか。月に一回か二回、休みを利用して、近県の農業現場を訪ねて、それを1年続けたからって何がわかるのか?
ならば最前線に行って24時間体制で1週間いた方が、よっぽど農業の現場のことがわかるはず。
安易に結論が出た。ボクにとっての最前線は松本で教えてもらった「長野県新規就農者プロジェクト研修」だ。
同年の03年3月1日、池袋サンシャインで行われていた「新農業人フェア」にいき、長野県のブースを訪ね、プロジェクト研修受講のお願いをする。
ただ、前回同様にこれといった知識も考えもないのがバレると「もう少し考えなさい」と、追い返されるので、とにかく考えたふりをしてデマカセをひたすら喋る。
とりあえずクリア、以後、小諸市にある県農業大学校にて受けた3回の面接も同様にデマカセ戦法で乗り切り、3月中旬、受講許可が降りる。
その足で東京に戻り、お世話になっていた居酒屋の社長に退社のお願いに。
退社は認められるも、社長には完全に鼻で笑われる。
そして「農業」を思いついて約2ヶ月後の03年の4月4日、妻を東京の自分の実家に居候させ、単身で長野県小諸市の県農業大学校へ。新規就農者プロジェクト研修のスタートとなる。
研修期間は4月から12月まで。
まず農業大学校での座学、圃場実習からスタート。
5月からは実際の農家さんのもとでの「農家研修」がスタート。12月までの間、3軒の農家研修を受ける。また恩師、就農コーディネーターの石原さんが「先進農家視察」として相当数の県内先進農家のもとへ我々を案内して下さった。「思いつき」で始めた農業だったため、知識は殆どゼロ。だからあらゆるものに先入観がない。直感的に「面白い」と思ったら、とりあえず飛び込んでみる。そして飛び込んだ先でも「面白い」と思ったら同様に飛び込む。するとわらしべ長者のごとく、出会いが出会いをよび、あれよあれよとたくさんの出会いを手に入れることができた。この1年間が今でも自分にとって宝物でもあり、全ての原点となる
翌04年から住居を就農希望地の波田町へ移す。
里親、百瀬央士さんのもとで里親研修スタートの予定だが、ここで百瀬さんが自分のために畑を2枚(30aと35a)を借りて下さる。
通常の里親研修は里子が里親の畑に通い、研修を受けるのだが、
ウチは逆。「お前、この2枚の畑でスイカを作れ。オレが教えに来てやる」と。
「農業」という言葉が思いついてから1年後、里親研修と同時に独立営農が始まってしまった。
就農までのドタバタ劇
上記をご覧下さいませ。
農業技術の習得
2003年プロジェクト研修中

・県農業大学校での座学、圃場作業
・農家研修→スイカ農家2軒、有機無農薬多品目野菜栽培農家1軒

2004年里親研修

・里親農家、百瀬央士さんからのご指導
・スイカ育苗指導、スイカ農家1軒

信州ぷ組関連の農業技術勉強会
(特に池上洋助氏、石綿薫氏との出会いは大きかった)

JA松本ハイランドすいか指導担当からの指導
研修など
・長野県新規就農者プロジェクト研修 ・長野県新規就農者里親研修 ※研修中は5軒の農家さんにお世話になりました。
栽培作物を選んだ理由
就農希望地を先にこの地、松本市波田に設定。で、波田で何ができるかな?って人に聞いたら、波田は全国有数のスイカの名産地。じゃ、スイカにしておこうかな?でスタート。
利用した資金制度
申請可能な補助金は全て申請しましたが、
現在ほどの潤沢な補助金はありませんでした。
借入は施設資金等にて150万ほど。
農地の見つけ方
最初に借りた畑2枚は里親さんのご尽力によるもの。以後は自然と声がかかるようになる。
農村では未だ、農地の貸し借りは相対の信頼関係で決まる。
じゃ、どうやって認めてもらうかって?
ただ、ひたすら畑で頑張って、いいモノ作ること。こっちはわからなくても、人はこっちを見ている。
就農後の紆余曲折
就農1年目、2枚借りた畑のうち、1枚目は順調にいく。
2枚目の畑が収穫を迎えそうな数日前、3日ぶりに畑にいくと畑の色が変わっていた。
枯れ始めていたのだ。とにかく、慌てて、JAの指導員、里親さんに来ていただいたところ、「連作障害による根腐れ病」と。通称、バッタン病。
スイカがバッタンするからバッタン病ではない。見た人間がバッタンするからバッタン病。
笑い話にならない本当の話。
JA指導員が試しにスイカを割って食べてみる。
「土肥さん、この味ならギリギリ圃場検査通るから、急いで圃場検査受けて、枯れ切る前に出荷しなさい」と。
おかげで経済的被害は最小限にとどまる。
でも、これがきっかけで土作りに深く取り組むこととなる。
これも含めて、就農1年目は本当に苦しかった。
仕事は遅く、段取りは悪いし、動きはまだ悪い。余りの辛さに妻は数回、涙を流した。
「どうしてこんなに大変なの」と。
それだけに生まれて初めて収穫したスイカは美味かった、美味かった。

就農4年目、栽培した畑4枚のうち、1枚が原因不明の全滅。
それが目立つ場所にあり、無神経な人から、傷口にタバスコ塗りこむようなことを何回か言われた。
もちろん経営的打撃も受ける。

就農5年目、お盆まではJAの値も高値で推移し、順調だったが、盆後、天候が急変。
急に冷え込み、スイカが全国的に全く売れなくなった。すると産地始まって以来、初めての「出荷停止」。そしてその後、出荷調整がかかり、出荷基準が狭まり、また厳しくなる。が、値段はまさに二束三文。盆後の売上が壊滅的だった。

翌、就農6年目、梅雨らしい梅雨が続き、7月中旬、梅雨明け宣言が出る。
が、翌日から約一ヶ月間、ほぼ毎日雨が降る。産地内で病気が多発。市場で信用を欠き、また雨でスイカの売れ行きが不調。値段が超低空飛行状態となる。
前年の出荷停止騒ぎの時は「これより下はないだろう」と言われたが、結果、産地の売上は前年を下回った。

就農8年目。
収穫開始当初は全国的にスイカがなく、高値取引となり、好調なスタートとなり、その後は台風が来たりしたが、何とかお盆までは順調に。
が、盆明け、8月20日ころから一週間ほど雨が降り続く。
それが原因で腐敗果が発生。市場から一斉にクレームが発生。
結局、その間、出荷した生産者のうち、85%からクレームが出たことがわかる。
ちなみにウチは非クレーム農家15%側。
その影響もあり、盆後の売上が例年の1/3に。

これまで「こんなことは初めてだ」って産地事故が3回発生。
我ながらよく食ってると思う。

ただ紆余曲折ながらも、2010年11月、身の丈に合わない住宅ローンを組んで、身の丈に似合わない家を建てる。
家と言うよりは、あらゆる農業活動のためのフランチャイズとしての住宅。
農業活動の拠点だ。
2012年になり多少安定傾向に。
技術的、人間的成長が背景。
2017年、公式HPを完全リニューアル。
農業に取り組む上で大切にしていること、今後の目標など
研修生として信州に住み、就農数年間は「決めないこと」を大切にしてきた。 未熟な知識、未熟な技術、未熟な感性、そしてちっぽけな思考しか持っていないはずなのに、物事を決めつけて、出会いという宝物をゴミのように捨てる新規就農者や研修生を何人も見てきた。 未熟なんだから、まず全ての可能性に心を開き、「面白い」と感じたら先入観なく飛び込む。 お蔭様で、出会いという宝物を沢山いただいた。 今は「自分と向き合うこと、自分から逃げず目を離さないこと」 全ての答えは自分自身の心が基本となる。自分としっかりと向き合い、自分の位置、価値、役目をしっかりと見据え、自分の歩むべく道を自分で責任を持って決める。 でも、それができるのが農業の醍醐味。 「足るを知る」こと。 「当たり前」はひとつも存在しないこと。 何よりも大切なのは「人」。 自分も含めて。 ここまで農業に本気で取り組んでこれた理由は、栽培上の面白さはもちろんだが、一番はそれを通じて生まれる豊かな人間関係と出会い。 素晴らし過ぎる。
新規就農に関する社会状況や問題点など
まず基本として就職の就の就農とありますが、実際は起業の起の起農です。
新規事業立ち上げと思って下さい。

現在、新規事業を立ち上げることにおいて発生する問題の難しさや困難な社会状況は農業のみならず全てにおいていえることです。
その中で重要なのは「自立心」をもった「覚悟」だと思います。
自分で考え、自分で判断し、自分で行動にでて、自分で全責任をとる。
これが基本です。
でも、これが出来るのが農業の魅力です。
農業はやり方次第です。
就農希望者の受け入れ
ここ松本市波田地区は全国有数のすいかの名産地。
本当に美味しいスイカが作れます。頑張れば十分に生活できる収入を得ることが可能です。
ただ春から夏にかけての短期勝負のため、リスクも高いし仕事も相当にハードです。
でも、それを上回るやりがいと充実感とそして達成感がこの地でのスイカ栽培にはあります。
強い覚悟を持つ就農希望者であればウチでは喜んで受け入れさせていただきます。
波田でのスイカ栽培での就農は強くおすすめできます。
何より共に頑張れる同志を増やしたいと願っております。
ご連絡をお待ちしております。
(4月から8月にかけては繁忙期のため、それ以外だと助かります)
就農希望者へのメッセージ
紆余曲折のところ書きましたが、私の場合、就農に際して、ろくに調べもせず、勢いだけで突っ走りました。
ただ、思うに重要なのは動機や経験やお金ではなく「チャンスに出会った瞬間、何が出来るか」かだと思います。
強い志と覚悟があれば、道は必ず開けます。
農業という生き方は魅力にあふれています。
研修・アルバイト情報
上記にあるように決意と覚悟を持った新規就農希望者の研修は受け入れは可能です。 相談、問い合わせも可能です。 ただ4月下旬から9月初旬にかけては繁忙期のため、時間を割くことが難しいと思います。 相談、問い合わせはそれ以外の時期だと助かります。 アルバイトですが、 7月中旬から9月初旬にかけて、収穫補助のアルバイトを毎年募集します。 時期になりましたらブログやFBにて募集しますが、お問い合わせはいつでも可能です。
連絡先
農園主氏名
土肥 寛幸
農園郵便番号
390-1401
農園住所
長野県松本市波田10705-16
農園電話番号
0263-92-2871
農園ファクス番号
0263-92-5903
農園メールアドレス
info@dosuika.com